冬がおすすめ!京都の人気観光スポット【金閣寺】で600年の歴史に触れる!

京都金閣寺

皆さんが、「京都」と聞いて、まず頭に思い浮かべるのはどんな光景ですか?

京都の人気観光地の一つである【金閣寺】を思い浮かべる方も多いと思います。

【金閣寺】は国内外からの観光客が訪れる、京都おすすめ観光地です。

冬の時期に見ることができる【金閣寺】の雪化粧はまさに絶景!

そこで今回は、京都の人気観光地である【金閣寺】について、その魅力や見所をお伝えします。

目次

京都おすすめ観光地【金閣寺】はどんな寺?

金閣寺

京都の北区に位置する【金閣寺】は、臨済宗相国寺派の寺院です。

ユネスコ世界遺産にも登録されている京都の人気観光地で、年間拝観者数はなんと!500万人以上!

修学旅行の目的地になっていることも多いので、学生時代に行かれたことがあるという方もいらっしゃると思います。

臨済宗相国寺派の寺院として建てられた【金閣寺】には、なんと600年もの歴史があるんですよ。

臨済宗相国寺派【金閣寺】

足利義満像(鹿苑寺蔵)

【金閣寺】の開基(初代住職)は室町幕府第3代将軍・足利義満です。

【金閣寺】の正式名称は「北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)」といいます。

「鹿苑寺(ろくおんじ)」と呼ばれることもあります。

義満の法号(今でいう戒名のようなもの)である「鹿苑院殿」にちなんで名付けられたとされています。

【金閣寺】は、義満が住居として暮らしていた北山山荘を造営したものです。

義満の死後、義満の遺言で寺にして「鹿苑寺」₌【金閣寺】となりました。

「金閣」の建物の内外には金箔が貼られていて、極楽浄土の世界が表現されています。

金箔で輝く「金閣」がある寺ということで【金閣寺】と呼ばれるようになりました。

【金閣寺】舎利殿(しゃりでん)の様式

【金閣寺】の※舎利殿は三層造りになっています。

※舎利殿とは、釈迦の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を安置する建物のことをいいます。

一層目は、「法水院(ほっすいえん)」と呼ばれていて、北山文化を象徴する、平安時代の貴族の邸宅様式「寝殿造り」で造られています。

二層目は、「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、鎌倉時代の武家の住宅様式「武家造り」で造られています。

三層目は、「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれる、中国風の「禅宗仏殿造り」で造られています。究竟頂とは中国語で「究極」という意味を表す言葉です。

二層目と、三層目の内外には金箔が貼られていて、三層目の屋根の上には金色の鳳凰が建てられています。

異なる3つの様式を調和させた、室町時代を代表する建造物です。

舎利殿だけじゃない【金閣寺】の見どころ

出典:金閣寺公式ホームページ

金箔で美しい輝きを放つ【金閣寺】には、舎利殿の他にも、ぜひ見てほしいスポットがたくさんあります。

そんな【金閣寺】おすすめスポットをいくつかご紹介しましょう。

【金閣寺】の櫟樫(いちいがし)

出典:金閣寺公式ホームページ

照葉樹林を構成する常緑高木の1つ。京都ではあまり見られないため、京都に残る櫟樫の巨木として貴重なものです。1983年(昭和58年)6月1日に「京都市指定天然記念物」に指定されました。

【金閣寺】の庫裏(くり)

禅宗特有の様式で造られた建物です。

明応・文亀年間(1492年~1504年)に造られたと見られています。

【金閣寺】の龍門滝

出典:金閣寺公式ホームページ

2.3メートルの滝で、龍門の滝を無事に登りきることができた鯉は龍になる、という中国の故事「登竜門」に因んで、鯉魚石(りぎょせき)が置かれています。

【金閣寺】の金閣寺垣と虎渓橋(こけいきょう)

出典:金閣寺公式ホームページ

龍門滝の左側山畔にある石段。この石段を石橋に見立てて、中国の故事「虎渓三笑(こけいさんしょう)」に因んで虎渓橋と名付けられました。

【金閣寺】の600年の歴史について

【金閣寺】の歴史は、さかのぼること600年、室町時代に始まりました。

1336年(建武3年)から1573年(天正元年)までの約240年間続いた室町時代は、戦乱が続いた時代ではありましたが、

農業・工業の技術が発展し、北山文化や東山文化など文化面でも充実した時代でした。

【金閣寺】の歴史の始まりは、室町時代の初期1397年(応永4年)です。

【金閣寺】の歴史を簡単に年表にして見ていきましょう。

豪華絢爛な金箔の塔で、国内外の観光客から絶大な人気を誇る【金閣寺】ですが、その歴史は波乱曲折なものだったんですね。

【金閣寺】のもうひとつの歴史

【金閣寺】は、足利義満が将軍職を退いた後の余生を過ごすための場所だったとされていますが、それは表向きの歴史で、【金閣寺】と義満の歴史にはもうひとつの歴史があるんです。

【金閣寺】もうひとつの歴史の鍵となるのが「中国」です。

先述の【金閣寺】のおすすめスポットを見ても分かるように、【金閣寺】の境内には、様々な所で中国の文化が取り入れられています。

義満はなぜ、【金閣寺】にこれほどまで中国文化を取り入れたのでしょう?

将軍職を退いた後も義満には、時の天皇を凌ぐほどの権力があったことが知られています。

【金閣寺】が中国との貿易を盛んにして、文化の発展に貢献した場所とされているのは、義満が【金閣寺】を政治、経済、外交を司る場所として使っていたからだと考えられます。

義満が【金閣寺】を建てた真の目的は?

【金閣寺】で中国との貿易を進めていた義満、その貿易内容は中国に高品質の「日本刀」を輸出するものでした。

質の良い日本製の刀は中国では大変な需要があり、高価格で輸出することができ、これにより義満は巨額の「明銭」を獲ることができたのです。

当時の中国は、シルクロードの整備によって、西アジア・東南アジア・アフリカとも国交があり、盛んに貿易をおこなっていたため、中国の貨幣である「明銭」は広い範囲で流通していました。

そこで義満は、国際マーケットの中心国であった中国の貨幣「明銭」を日本国内に流通させて日本の通貨として採用しよう考えたのです。

この計画が実現すれば、自国の通貨を作る手間が省けて、さらに日本が国際社会への仲間入りを目指せるという目論みだったのでしょうね。

さらに、義満の狙いはもう1つありました、自分が「明」中国との外交を取り仕切ることで、明から「日本国王」という称号を手に入れたのです。

【金閣寺】の舎利殿の屋根には「鳳凰」が建てられています。「鳳凰」には中国で古くから伝わる言い伝えがあり、「鳳凰は、徳の高い君子が位に就く時に現れる」と伝えられています。

つまり、【金閣寺】の「鳳凰」は貿易に来る中国人への自己アピールだったのでしょう。

明から与えられた「日本国王」の称号を足掛かりに、自分を世界に売り込み、世界が認める国王の地位を確立したかった義満ですが、1408年(応永15年)5月6日に志半ばで死去しました。

【金閣寺】のもうひとつの歴史とは、足利義満が自分の野望を叶えるための歴史だったということですね。

【金閣寺】基本情報

所在地:〒603-8361 京都市北区金閣寺町1

地図はこちら↓

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